目には見えずともふわりと漂い、気分を高めたり、ほっとリラックスさせてくれる「香り」。普段から香水をつけたり、アロマオイルを焚いたり、積極的に香りを楽しむ習慣がない人でも、街を歩いていて、ふと漂ってきたキンモクセイの香りにうっとりしたり、カレーの匂いにノスタルジーを掻き立てられたり…といった経験はきっとあるでしょう。「香り」といえば、屋内で楽しむものというイメージもありますが、小泉祐貴子さんは「香り風景」という視点を提案し、野外イベントで香りの演出を手掛けたり、香りの強い草木を使った庭園づくりに携わったり、様々な形で香りの楽しみ方を提案されている香り風景デザイナー。その試みは日本でも唯一に近いユニークなもので、環境省主催の「みどり香るまちづくり」企画コンテストで「におい・かおり環境協会賞」を受賞するなど、景観デザイン(ランドスケープデザイン)の世界でも大きな注目を集めています。そんな小泉さんの創られる「香り風景」とはどのような仕組みのものなのでしょうか。又、香りは私たちに様々な作用をもたらすと言われていますが、「香り風景」では、どんな作用を期待できるのでしょうか?同コンテストの受賞企画の舞台に選ばれた東京都世田谷区の二子玉川公園内にある日本庭園「帰真園(きしんえん)」を訪ね、お話を伺いました。
(文/井口啓子 撮影(特記以外)/出原和人 編集/福田アイ 協力/世田谷区立二子玉川公園)
「香り」という“視点”でその場所を感じてみる
小泉さんが「香り風景」を手掛けられるようになったきっかけとは?
もともと大学院や化粧品会社で、匂いを嗅いだときに人がどのように反応するか、という研究をしていました。嗅覚って人間の五感のなかでも、いちばん本能に近いんです。よく小説や映画で、匂いで過去を思い出すシーンがあるように、感情とか記憶にすごく関係するものなんですよね。それだけに同じ匂いを嗅いでも、その人が育った環境や文化によって反応が全然違うのがおもしろくて。そこから、より深く香りを追求するために香料会社に転職してマーケティングの仕事をするようになりましたが、その一方で、ランドスケープデザインに興味を持つようになって、30代半ばで勉強をはじめました。
最初は香りとは全く関係なく、風景をデザインするぞ!って気持ちだったものの、いざ勉強しはじめるとランドスケープデザインってどうしても形や色、配置など視覚が中心の世界で。もっと五感でその場所を捉えることはできないかな、と考えたときに、長年自分が関わってきた「香り」が繋がったんです。
香りって決してそれだけが前に出るものではなく、視覚やほかの感覚とうまく組み合わせることで目の前の風景がより鮮やかに楽しめるようになる、いわば名脇役。今は特に、コンピューターでも何でも、目で見る情報が多いので、ものの捉え方や感じ方が視覚に偏りがちで、特におそとでは匂いなんてほとんど意識されていないですよね。だからこそ、空間を構築する要素として香りをもっと意識的に取り入れて設計することで、大人から子どもまで、より鮮やかに記憶に残る風景を楽しんでもらえるのではないかと考えています。
「におい・かおり環境協会賞」を受賞された企画内容や、それ以外におそとで手掛けられた「香り風景」は、具体的にどのようなものでしょうか?
「香りの庭」というと、ハーブガーデンやローズが咲き誇るイングリッシュガーデンみたいなものを考えがちですが、私は日本庭園でも香りを楽しんでもらいたくて、「みどり香るまちづくり」企画コンテストでは作庭現場を経験した「帰真園」を舞台に提案しました。企画名は、「香りも楽しめる現代の日本庭園~住宅街・日本庭園・多摩川をつなぐ香りの道~」。日本に自生して古来から親しまれてきた植物を活用して、和的な香り風景を創り出すことにしました。
園へのアプローチには藤棚を配して、花が咲く季節には目だけでなく香りを楽しみながら歩いてもらえるようにしています。藤の花って白と紫で香りが違うんですよ。紫藤は目にすることも多いと思いますが、白藤も素晴らしい香りです。今回の提案では「白」をテーマカラーにしたこともあり、園内には白藤を中心に紫藤も効果的に配置しました。野点もできる露天の茶席奥にある擁壁沿いにも藤を這わせて、風が吹いたときに上から香りがふわっと漂ってくるようにしています。石畳の階段にはイブキジャコウソウを植えて、踏むとタイムのような香りが足下からふわっと立ってくるように配しました。今回、副賞としていただいたのは、設計案の一部である藤と日本のタイムと呼ばれるイブキジャコウソウでしたが、今後更に少しずつプランを実現していく予定です。
東京都江東区にある清澄庭園の秋のライトアップイベントで香りの演出をしたときは、ある装置を使って香りを漂わせましたが、清澄の秋の夜のしっとりした情緒に溶け込む、柔らかくて落ち着いたパウダリーな匂いをべースに、枯山水の滝の石組の箇所だけ、水の流れをイメージしたウォータリーで清涼感のある香りを漂わせました。このイベントが照明デザイナーさんとのコラボレーションだったのもポイントで、香りは灯りや音と組み合わせるとさらに効果を発揮するんです。
おもしろいのが、会場にいらした皆さまが、香りを気にしながら歩いてくださったおかげで、演出した香りだけでなく、元々ある土や苔、銀杏とか自然の木が醸し出す匂いにも反応してくださったこと。どんな場所にもその場所が元々持っている「地の匂い」があります。表面で目立つ香りはもちろん、空間の背景にある「地の匂い」にも目を向けてもらえると嬉しいですね。
「モノを介して接する香り」と「風景のなかで楽しむ香り」
小泉さん自身のなかで印象に残っている「香り風景」はどのようなものでしょうか?
たくさんありますが、原点は滋賀県の田舎暮らしかな。私は、横浜で生まれてすぐ、父の転勤で引越し、小学校に入るまで、滋賀県の竜王というところで育ちましたが、山と田園に囲まれた素晴らしい田舎で。青々とした芝生の庭の匂いや、ウシガエルや虫の声が響き渡るなかでの秋の夜風の匂いとか、強く心に残っています。小学生のころは、家から駅に行く途中の植込みに咲いていたジンチョウゲの香りが好きで、そのまわりの風景や、冬から春になるぐらいの時期の気持ちよくひんやりとした空気も一緒に思い出しますね。
母も香りが好きだったので、家に飾るお花も生ける前にまず「はい」って私に向けて香りを嗅がせてくれたり。おしゃれして家族で出かけるときの香水の香りも好きでした。子どものころに流行った香りつき消しゴムやボールペンなんかも集めていましたね。にわか雨の後に草や土の匂いがむわっと立ってくる感じとか、いわゆる「いい香り」ではないけれど、生命力を感じるような匂いも好きですし、残して生きたい「香り風景」だと思います。
小さいころの体験って強烈なものがあって、目に焼きついた風景の記憶には香りが一緒に残っています。ある香りから逆に記憶のなかの風景を鮮明に思い出すこともある。香りと風景って、つくづく深く結びついていますよね。
小泉さんのなかでは、人工的な香りと植物と自然が本来持っている香りとの区別はありますか?
その香りを嗅ぐとどんな気分になるのかな、と思いながら接しているので、そこに垣根はありませんね。ただ、合成か天然かという論点とは別に、世の中に商品として流通している「モノを介して接する香り」と「風景のなかで楽しむ香り」があるとして、最近はモノの香りへの注目が高まっている反面、風景のなかの香りを楽しむことが、だんだん忘れられている気がしています。
日本人は源氏物語の時代から、薫衣香(くぬえこう)を焚いて香りを着物に移したり、自分の香りを扇子に焚きしめて恋文をしたためたり、最近で言えば柔軟剤とかルームフレグランスのように、香りを身近に楽しむ文化を持っています。その一方で、昔は身の回りの自然を五感で楽しんでいたにもかかわらず、現代では五感で風景を楽しめる環境が減っている。だからこそ、「香り風景」を創り出すことで、現代にも五感で自然と対話できる環境を創っていきたい、未来のためには創らなきゃダメだとすら思っています。
都会に暮らす人が圧倒的に増えた結果、そうした人のなかにはなんとか自然と繋がりたいという欲求が出てきています。ガーデニングや家庭菜園のブームもその一環で、インテリアグリーンのように目で楽しむだけではなく、手を汚して土を触りたいというニーズが高まっているんです。都市のなかで求められる香りも、きれいな香りだけでなく、「大地」を感じるような土っぽい匂いや苦みのあるホンモノの緑の匂いなどへと幅が広がってきています。今までの価値観にとらわれずに幅広い香りが自由に受け入れられる時代になっていったら楽しいですね。
「香り」を意識することで五感のバランスが整ってくる
小泉さんは香りの効用を研究されていましたが、香りで心身が変わるといったことを実感されたことはありますか?
もちろんあります。香りの作用の仕方には、私が研究に関わっていた「グレープフルーツの香りで痩せる」のように生理的な変化を引き起こすほかに、この香りを嗅ぐとリラックスできるとか、幸せな気持ちになるとか、心理的な作用もあります。同じ香りでも、環境や体調によって感じ方が変わることもあるし、年月を重ねると以前はあまり好きではなかった香りを心地よく感じるようになったりもします。だからこそ、その時々で自分の感覚を満たしてくれるものを探すことをオススメします。香りという感覚を通して自分自身に耳を傾けてみることで、そのほかの感覚もほぐれてきますから。
香りは目に見えないものだからこそ、そこに意識を向けることは、自分の内側に目を向けることでもあるんですよね。現代人は特に、視覚を駆使するので、五感のバランスが崩れている人が多いと言われていますが、今までおざなりにされがちだった香りに意識を傾けることで五感のバランスが整いやすくなり、魅力的な人間らしさにもつながっていくと思います。
難しく考えなくても、香りはいつでもどこでも気軽に楽しめるものなので、緊張やストレスの多い毎日のなかで、凝り固まったものをホワッと解いてくれるものとして、うまく活用してもらいたいですね。
家だけでなく、おそとで香りを楽しむコツはありますか?
まずは気持ちいいな、と思ったらその場所で深呼吸!そして、その空気にどんな香りがするのか意識してみましょう。おそとの香りはやっぱり植物によるものが多いので、少しでも気になったらなんでも近づいて嗅いでみるとおもしろいですよ。特に香りの強い花ではなくても、幹や葉っぱなどにも匂いはあるので、葉っぱをちょっとちぎって嗅ぐとか、枝を少し引っ掻いてみるとか。いい香りを見つけるだけでなく、苦味や青くささを通じて植物の命を感じてみるのも楽しみ方のひとつですね。
あとは、外に出掛けるときにファッションの一部として香りを着けてみると、自分自身の気持ちが変わったり、周りの人の自分に対する印象も変わったりして楽しいですよ。香りとともにお出かけするという感覚ですね。
街には自然の匂いだけでなく、パン屋さんの匂いや、ご飯時に漂うお味噌汁の匂い、塗りたてのペンキの匂いなど、いろんな匂い・香りが溢れているので、好きな匂い・香り探しもできそうですね。部屋のなかは自分の選んだ香りだけになりがちですが、おそとには偶然の出会いがたくさんあるので、自分の感覚に素直になって、香りを通して外の世界と繋がってみるつもりで出かけると、いろんな発見があると思いますよ。力を抜いて自然体で香りを楽しんでもらえたら嬉しいです。心に残る「香り風景」、これからも創り出していきます!
ありがとうございました。
帰真園
東京都世田谷区・二子玉川の二子玉川公園内に2013年春に開園した周遊式日本庭園。監修は東京農業大学名誉教授の進士五十八氏、作庭・設計施工監理は高崎康隆氏。多摩川の自然と江戸の文化を主題とし、多摩川の源流から、渓谷や滝を経て、二子玉川の地までの水景を模した縮景も楽しめる。地形に沿った園路を歩き、多摩川に見立てた池まで辿り着くと、「二子帰帆河岸(ふたこきはんがし)」と名づけられた地点から園外に創られた小富士を望むことができる。園路は誰もが歩きやすいように整備され、車椅子を利用したまま草花に触れられる花壇「万人花筵(ばんにんはなむしろ)」や誰もが利用できる露天の茶席「万人席(ばんにんせき)」など、ユニバーサルデザインを積極的に導入している。ユニークな傘型の東屋「時雨亭(しぐれてい)」、グラフィカルな造形の「相生橋(あいおいばし)」、伊豆や北関東から集められた多くの石材の独特な組み方など、日本庭園の伝統をモダンに昇華したデザインも楽しい。また、池の畔には近代和風建築の特徴を残した区登録有形文化財の旧清水邸書院を移築。どの世代の人もどの季節もどの天候でも気持ちよく過ごせるよう作庭されていることから、市民の憩いの場となっている。
≫二子玉川公園ビジターセンター公式サイト
http://www.futako-tamagawa-park.jp/