視点を変えて、おそとを詠む

日々の飾らない生活や気持ちを俳句として、素直に、そして健やかに表現する神野紗希さんは、活動の場を年々広げている今注目の若手俳人。題材が溢れる“おそと”へ出向き、感動したことを自分らしく詠んだ彼女の句は高く評価されています。そこで、神野さんは、どのような視点でおそとを眺め、どのような影響を受けているのでしょうか。桜が満開となった日の東京・国立(くにたち)で、お話を聞きました。
[取材・文/山村光春(BOOKLUCK)、撮影/松山泰三、編集/福田アイ]

晴れでも、雨でも。今しかない世界を楽しむ

―まず、ご自身が最初に俳句に触れたときのことを聞かせてください。

一番はじめは小学校ですね。地元が愛媛の松山で、正岡子規のふるさとだったので、夏休みに地元の小学生はみんな俳句を作らされる宿題があって。それで出したものに賞をもらったのが、なんとなく嬉しい経験として残ってますね。つばめを詠んだ句だったんですけど、家につばめの巣があって、毎年かわいいなって見ていて、観察日記とかつけていたので。それから高校生になったとき、地元で「俳句甲子園」っていう、高校生同士が俳句で団体戦をするっていう(笑)大会があるんですけど。それを見て「こんなのがあるの?」って面白く思って。言葉を丁寧に使うってことを、同じ世代の高校生がやってるのが驚きで、自分もやりたいって気持ちになったんです。

―言葉にすることもさることながら、その前の段階の「俳句を詠む目でいろんなものを見る」意識の変化っていうのは当時ありましたか?

もともとキョロキョロする子だったんですね。例えば、「桜がキレイ、でも本当にキレイ?」と、ちょっと横から見るような感じ。俳句をやりだすと、そういう目がとても培われると思います。片道40分かけて自転車で学校に通ってたんですけど、今までは「つまんないな~」って思ってたのが、楽しくなってきたり。晴れてても雨でも。それはそれで俳句の材料になるので。
俳句の世界に、句を詠むためにいろんなところへ行く「吟行」というのがあって。今日みたいに桜が咲いていて、晴れていれば最高なんですけど、雨が降っていても、桜が咲いてなくても、それを楽しむ。「今しか出会えない世界に出会う」ことが、一番大事だったりします。それに、普通の毎日を過ごしていても、同じように見えて違う。それが分かると「明日は何があるかな?」っていうのが楽しみになりますよね。外に行って、雨なら雨でも別に「う~っ」ってストレスが溜まらない。人生過ごしていく上で、いい性格になったなぁって思います(笑)。

心の視点を耕しておくということ

―世の中のいろんなものを自分の視点で見るコツはありますか?

みんなが見てないところを見るってことですかね。例えば、桜の木だと、みんなは桜の花を見ますよね。だけど、幹とか根っこを見てみるとか。そしたら木の根の間にスミレの花が咲いていたり、桜の木の下の方に桜の花が咲いていたり。花を詠もうとするとたくさん名句があって、みんなと似たような句になっちゃうと思うんですけど、例えばみんなが見てる視線と変えてみるだけでも違いますよね。ちょうどこの間、仙台に俳句の大会に行ってきて、ジュニア部門を選考してきたんですけど、そこで一番になったのが、まさにそういう俳句で。「花びらは帰ってこない桜の木」。すごくいい句で、普通は花びらが“巣立ってく”とか、“未来へ”とか、花びらを見ちゃうんですけど、その子は離れて行かれちゃう幹の方を見たんですよね。ちょっと視線を変えたり、人が詠まないことを見つけてみたり。難しい言葉は一切いらないですね。日常会話ができる人なら、名句はいくらでもできる。分かりやすい言葉で言われた方が、より深く心に届くと思います。

―ボキャブラリーの多さというよりは、自分の視点の多さのほうが大事なんですね。

そうです、大事です。いろんな場所に立ってみて、自分で見てみた方がいいと思います。ただ、今見て、すぐパッとできるわけでもないんですよね。私も実際、家に戻ってから作ることが多くて。例えば桜の句を作ろうってときに、今日見た桜が出てくることもあれば、前に見た桜の思い出が出てくることもある。実際に見て、“桜”って言葉を少しずつ豊かにしておく、耕しておくと、フッと「桜で句をつくろう」って思ったときに、今見たような感じでできる。なので、散歩される人や、ふだん同じ道を通勤する人は、すごく俳句に向いてると思います。季節の違いがすごく分かりますもんね。はじめようと思ったら、すぐにできる。本当はみなさんのなかで、すでに耕されていると思うので。

―なるほど、心の視点を耕しておくことも大事なんですね。あと面白いのは、自分の気持ちも、俳句に投影させたりできることですよね。

不思議ですよね。本人は意識してなくても、その日によって、うれしい桜と悲しい桜ができたりします。で、見返してみたら「ああ、このとき失恋したんだよな」とか(笑)。俳句は怖いなって思うところはそこですね。同じ自分でも、見え方はその日によって違う。だから、昨日と今日でも違うだろうし、去年と今年でも違うし、見た場所でも違うわけです。

ふだんの暮らしをみつめなおす

―俳句を詠むという立場で吟行するときと、プライベートな時間を外で過ごすときは違うんですか?

ほとんど変わらないですね。基本的には句帳を持ち歩いて、どんなに小さなことでも書き留められるようにしているので。それは言葉だけのメモなんですけど、例えばユキヤナギが咲いていたら「ユキヤナギ」ってだけ書いておく。するとそこが付箋になって「あのときこうだった」とか思い出されるので。そうしていると、飽きないですね。

―ふだんから外で過ごすのは好きなほうですか?

好きですね。ボーッとしていたい(笑)。過ごし方は、やっぱり俳句を作るのと、おいしいパン屋さんでパン買って、紅茶と一緒に持っていってパクパク食べてって感じですかね。ここからひと駅くらいのところに矢川緑地っていうところがあるんですけど、冬にそこへ行ったときカレーパンをかじりながら、歩いていたら…。カレーパンってすごく粉が落ちるじゃないですか。わお!と思って、作った句が「カレーパン齧(かじ)るや屑(くず)がマフラーに」っていう(笑)。外で食べるパンってなんであんなにおいしいんでしょうね(笑)。給食で残したパンも、放課後に食べるのがすごくおいしかったですよね。それをまだ引きずっているのかもしれないです。外でものを食べるとおいしい。やっぱりふだんと違うっていうのがいいんでしょうかね。

―そういう意味においては、ふだんのことを少し視点を変えてするのが、俳句を詠むコツかもしれないですね。

普通はカレーパンが詩になるなんて思わないけど、それができるのが俳句なんですよ。たとえば和歌は、食べ物のことって詠まないんですね。昔の貴族は「食べる」ということを俗なことだと思っていて、人前で食べるのは恥ずかしいっていう意識があったので。ただ俳句だと松尾芭蕉も、みんなで汁をすすったっていう内容の句があったりするので、食べ物を詠むっていうのも、俳句のひとつの特徴。だからふだんやってることが、そのまま俳句になると思ってくれたらいいかもしれません。あと、たとえば与謝蕪村の句で「葱買(こ)うて枯れ木の中を帰りけり」っていうのがあって。それって確かに今でも、スーパーの袋からネギの頭を出して、枯れ木のなかを帰るってことはやるなと。でも蕪村、あんたもそれやってたの!? というかネギ、当時から売ってたの? って(笑)。今を詠むと、今しか通じないって思うかもしれないですけど、俳句はいつでも「今」になる。それは何百年後のことかもしれないですし、逆に今、昔の句を詠んで、何百年前の人の気持ちがありありと分かることもある。だから、たとえ詠んだそのときは孤独かもしれないけど、その句をいつか誰かが詠んで「分かる」って言ってくれるかもしれない。そう思うと、孤独じゃないんですよ。

ありがとうございました。

神野紗希さんに俳句のイロハを聞きました!

—俳句の定義といいますか、何をもって俳句とするのかを教えてください。

一般的には5・7・5で季語が あるものですね。ただ季語がない俳句もあるし、自由律俳句というのもあります。5・7・5と季語のあるものが絶対という訳じゃないので、案外自由なんですよ。

—その成り立ちといいますか、そもそもどういうかたちで生まれたのでしょう?

もともとは、5・7・5・7・7の和歌から派生したんですね。ですから、貴族たちの優雅な遊びとしての和歌に対して、「和歌の美しい世界では詠まれない素材も使って、どんどん詠んでいこう」という反骨精神たっぷりの“庶民の文化”が「俳句」なんです。江戸時代には、俳諧(連句)という、誰かが5・7・5を詠んだらまた別の誰かが7・7をつけ、それにまた5・7・5と連ねてゆく言語遊戯が盛んにおこなわれていました。そこで、座の人たちに主が「今日この日に集まった」人たちへのあいさつの気持ちをこめて、一番はじめに季節の言葉を一緒に入れて5・7・5 の発句(ほっく)を作ったのが俳句のもとです。

—そこから発展して、現代では季節的なものを楽しんでそれを詠むということになったんですね。

そうですね、「今を共有する」ってことなんでしょうね。例えば桜の季節に芭蕉の桜の句を詠んでいると、芭蕉と今を共有してるわけなんですよ。今っていうものの代替物というか、今をカタチにしたのが季語なんだと思います。

—では、俳句は、そのとき、自分が感じたことや、できごとを詠めばいいんですね?

包み隠さず本音を詠むのがいい俳句ですね。ついついかっこつけたりしがちなんですけど、それをせず包み隠さず、そのときの気分をいうのもいいですよね。

—季語を入れないといけないとか、◯◯しなきゃいけないとか、そういう技法的なところが先に立つところがあるんですけど、成り立ちからするともっと身近で自由なものなんですね。

そう、そんなに堅苦しく考えないで、俳句は「ひとことで今を詠む短い詩」と考えてもらえればいいなと思います。あと「季語」にはいろんな要素があって、我々の生活から出てきたものが季語になったりするんです。例えば、冬は“ドテラ”とか、春だと“剪定”だとか、そういう昔から積み重ねてきた民族学みたいなことが俳句になっていて、動物や植物も季語に出てくるので、生物学とか…あと天文学や気象情報とか、その上に文学もあったりして、ひとくくりにしにくいんですけど、逆に自分の好きなジャンルから入って来てもらえれば結構面白いかもしれないですね。だからまず俳句を作るときは、自分の生活のなかで、外にたくさん出て行って、そこから季語になるものを見つけて、言葉に定着させていくといいかもしれないですね。

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神野紗希(Kono Saki)

俳人。1983年松山市生まれ。松山東高等学校在学中に俳句をはじめる。2001年、第四回俳句甲子園にて団体優勝、「カンバスの余白八月十五日」が最優秀句に選出。2002年、第一回芝不器男俳句新人賞にて坪内稔典奨励賞を受賞、同年に第一句集『星の地図』(まる工房)を上梓。その後プロの俳人として2004年〜2010年まで、NHK-BS『俳句王国』にて司会を担当するなど、テレビ、ラジオ、雑誌などのメディアにも多く出演している。句集に『光まみれの蜂』(角川書店)、『新撰21』(邑書林)入集、共著『虚子に学ぶ俳句365日』『子規に学ぶ俳句365日』(草思社)などあり。現在は東京都国分寺市在住。お茶の水女子大学大学院・博士後期課程在籍。近現代俳句を研究している。
オフィシャルサイト
http://spica819.main.jp/konosaki

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