川俣正『不在の競馬場』(2002)
撮影:萩原美寛
『横浜トリエンナーレ2005』のキュレーター、『アサヒ・アート・フェスティバル』事務局長をはじめ、多くのアートや環境関係のプロジェクトに携わられている芹沢高志さん。アートで気づかされる場所の力や空間とアートの関係を、ご自身の経験もふまえお聞きしました。
時代がアートをおそとへ連れ出した
野外美術館や屋外での芸術祭、大阪では街なかにアートを展示する『おおさかカンヴァス推進事業』など、おそとでアートに触れ合う機会が最近増えていると感じます。なぜ今おそとでアートなのでしょうか?
様々な要因が関係していると思いますが、僕なりの解釈として話をしたいと思います。
まずはアートの概念から。ある作品がここにあったとして、普通の人間は「これが芸術」だと言い切る自信はないですよね。本当はそれぞれの感性でいいのだけど、作品の価値判断は、ギャラリーや美術館が担ってきたわけです。「絵」は額に入っていて、「彫刻」は台座に乗っている、そして専門家が認めているからそれがアートなんだ、という風に定義されていた。それが20世紀、とくに第二次世界大戦後になって、額からはみ出ている部分はアートではないのか?とか、ペアになっている彫刻の間の空間にこだわりがあるのに、そこは作品ではないのか?とかいろんな実験的な作品が生まれてくるようになった。
その裏には、商業主義的なアート業界への反発もあります。アートを「作品」として販売するとなると、どこからどこまでが作品だと説明できて、その価値を説得できて、持ち帰れるものでないと販売できませんよね。そんな商業的な圧力から逃れようと、60年代には屋外にでて、いわゆるランドアートといわれる大地を造形するアートがでてきたり、時間的な概念が加わった、インスタレーションという形態が生まれてきた。インスタレーションというのは、かりそめに生まれるもので、状況を作るという意味を持つアートのジャンルです。一定期間存在して消えてしまうものや空間をまるごとアーティストが作り出しているというもので、「物」としてのアートとは異なります。
2010年春に実施された「おおさかカンヴァス推進事業」では、
街なかに様々な作品が展示された(原高史『声の道signs of memory project 2011』。
地域の人々にインタビューをおこない、印象的な「言葉」をオブジェにして展示した作品)。
それに加えて、リレーショナルアート、コミュニケーションアートといわれるジャンルも生まれてくる。これも、「物」を作品とするのではなく、人と人、物と人との関係や関係を作り上げるプロセスをアートとするというものです。それはつまり、アートが不特定多数の人や社会と関わろうとしてきだしたということで、まちづくりや福祉、医療なんかとアートが関わるように移ってきたんですね。
さらには、アーティストのなかにも、アートを展示するためだけに構成された美術館やギャラリーのなかだけではなく、現実の世界で自分のしていることが意味のあることなのか試してみたいという欲求を持つ人があらわれだした。そのような人たちが、どんどん外へと活躍の場を広げていったんです。
アーティストと一緒に作品をつくるワークショップもコミュニケーションを育むアートのひとつ(気流部『AIR JACK』in 服部緑地)。
そんな風に、アートのジャンルや関わり方の広がり、アーティスト自身の欲求など様々な要因があって、アートを展開する舞台として「外」が注目を浴びるようになってきたのではないでしょうか。
アートにとっての風景
様々な要因がからんでアートの概念が広がり、アート自体も新しいジャンルが次々と生まれてきて、今の流れがあるということですね。では、芹沢さんご自身はアートと空間との関係をどのように捉えていらっしゃいますか?
元々、地域計画やランドスケープに近いようなことをやっていました。だから、アートに関係するようになってからも、風景など、外部空間の持っている力にはいつも関心がありましたね。その思いを強くしたのが、お寺の新伽藍建設に伴う展示空間のプロジェクト(注)です。アートの展示空間として設計していない講堂を、毎回異なるアーティストとアートの空間としてつくりなおしていく。アーティストによって空間の性質が丸ごと変わるのを目の当たりにして、必然的に空間とアートの関係を考えるようになりましたね。
その後2002年のとかち国際現代アート展『デメーテル』では、屋外にアートを点在させることで風景の力を再認識してもらおうと思って、企画しました。帯広の市民がどうして今ここにいるのか、ということをちゃんと見直すものにしたいという目的があり、そのためには風景を取り入れるのが一番だと思ったんです。そして会場に選んだのが、帯広競馬場です。
競馬場に最初行ったときはがら~んとしていて、なんか変だなって思った。奥まで行くとおじいちゃんと若夫婦と子どもがいて、5,6頭の馬を世話している。「馬はこれだけしかいないの?」って聞くと、「先週までは700頭ぐらいいたけど、別の競馬場に行った」って言う。意味がわからなくて(笑)。よく聞いてみると、そこでおこなわれているのは「ばんえい競馬」と言う、巨大な農耕馬が1トンぐらいの荷物を運んで競うものなんです。それは1箇所で開催されているものではなく、道内にある数か所の競馬場を、馬と厩務員が1年をかけて巡回していて、訪れたときはちょうどその開催期間が終わったときだった。だからそのときは広い敷地に厩舎が点々とあって、大きな柏の木が点在していて、安っぽいプレハブのような建物があって、なんだか閑散とした印象でした。でも1年後、馬たちがやってくるという日に行ったら、生活の風景が急に生まれていたんです。
帯広競馬場の奥の厩舎地区の風景。
競馬場の奥のこの風景は、帯広市民にさえあまり知られていなかった。
プレハブにはのれんがかかっていて、食堂や馬の病院になっていたり、銭湯ができていたり、トレーラーが並んで犬が鳴いている。緑のガウンを着たおかみさんが、お風呂から出てきて自分の厩舎に帰っていく。日本にまだそんな旅をし続けるような生活が残っているのも面白いと思ったし、全部ひっくるめて、風景そのものに場所の力を感じたんです。
普段は一般の方が立ち入る場所ではないのですが、ぜひその場所の力を感じてもらいたいと思ったのです。そのためにはまず、その場に来てもらわないとはじまらない。それで『デメーテル』は、10組の現代アート作家の作品を屋外に点在させることで、競馬場の中を歩いてアートと触れ合うというものにしました。
写真奥:蔡國強『帯広のためのプロジェクト 天空にあるUFOと社』(2002)。
写真手前:nIALL『nIALL Project_帯広』(2002)
撮影:萩原美寛
ヴォルフガング・ヴィンター&ベルトルト・ホルベルト『帯広ーライトマシーン』(2002)
撮影:萩原美寛
東長寺夜景。
月夜に浮かび上がる本堂の幽玄な姿。
撮影:萩原美寛
東長寺境内地下の講堂で開催された『シナジェティック・サーカスーーバックミンスター・フラーの直観の海』展(1989)。
撮影:萩原美寛
場所の力とアートの魔術
別府でおこなわれた『混浴温泉世界2009』では、その方法を街全体に広げられましたね。『混浴温泉世界』では、特にどのようなことを意識してディレクションされましたか?
別府は街自体にすごくマジカルな力を感じたんです。だからディレクターたちが計画した範囲内でアートを楽しむのではなく、むしろ裏切るというか、道に迷って別府の街が持つ思いがけないものと遭遇してもらえるような状況をつくりました。行先をいくつかつくって、そこに向かうんだけど、途中でおいしそうなものがあったら食べてもいいし、店に入っても構わない。そうこうしているうちに、なんのために別府に来たのかわからなくなってもいいんじゃないかなと、思って(笑)。
もうひとつ、風景と切り離さないでどうやってアートを展開するか、というのが僕のなかで非常に重要なテーマなんです。アボリジニのソングラインをご存じですか?オーストラリア大陸には、彼らの歌の道が縦横無尽に張り巡らされている。例えば、エアーズロックなどの聖地へ向かうソングラインがあります。アボリジニは、その道を祖先から受け継いだ歌を歌いながら歩くことで、祖先との繋がりを確認するという彼らの世界観を持っています。風景のなかを歩くことで、自分たちがなぜここにいるのかを認識する。大げさかもしれないけど、生きている意味を風景と切り離して考えると空しくなってしまう。人は過去から繋がる今という時間や周囲との関係のなかで存在していて、他がいるから自分がいて、自分がいるから他がいるんだと思う。世界はそういう関係の網の目なんだって考えたら、周りを切り離して自分だけで意味を持つというのはすごく自分を追い込んでいることになる。
畳の美しさに田園風景を感じたという、ホセイン・ゴルバの作品『Roshandel、心の光(伊藤和也さんとペシャワール海へのオマージュ』。元老舗旅館冨士屋にて(©BEPPU PROJECT)。
マイケル・リン『無題』。建築家とコラボレーションし、古い木造家屋の一室を改装した。伝統的なものを蘇らせ、その場所の本来の価値を留めたいという思いが込められた作品(©BEPPU PROJECT)。
『混浴温泉世界』は現代アート展にすぎないのだけど、そういうことが感じられる仕掛けができたらなと思って実施しました。
(『混浴温泉世界』は2012年に次回の開催が予定されています)
舞台のひとつとなった鉄輪(かんなわ)地区。至るところで吹き上がる湯けむりは、
大地の力を感じさせる
(©BEPPU PROJECT)。
マイケル・リン、ラニ・マエストロ作品の発表会場となった築ほぼ百年の木造長屋
(©BEPPU PROJECT)。