普段、なにげなく眺めているものや、気に留めないもの。それらは、外の世界にたくさんあるはずです。今回の特集では、おそとで見られる自然のもののなかから、雪、石、木を順に取り上げて、それぞれに魅了された人たちのお話をご紹介します。彼らの眼差しや情熱から学ぶことはたくさん。それらを心に留めつつ、今回紹介する3つに限らず、あらゆるものを改めてじっくり自分の目で見つめてみてください。一日のうちのほんのわずかな時間であっても、ひとつのものへ意識を集中してみてください。そこから、何を感じるか。続けるうち、今まで見えていなかったものに気づくはずです。
(取材・文/松井瑞穂、撮影/坂上正治、編集/福田アイ)
ポケットをぱんぱんに膨らませながら、河原や公園でお気に入りの石を拾って集めるだけで楽しかった子どものころ。けれども、大人になるにつれ、当たり前にありすぎることから、「石」の存在に関心を寄せることも、宝物のように思っていたことも忘れてしまっているのではないでしょうか。そんな「石」の魅力を改めて見出し、素敵に飾っておられる石の愛好家・淡嶋健仁さんに、お話を伺いました。身近な石に隠された魅力とは一体何なのでしょうか?
河原や公園にある石が、アンティーク?そんな思いもかけないような視点から、石を愛でる楽しさを味わっているという淡嶋さん。それはつまりこういうことなのだと言います。「骨董の世界では、100年以上経過しているものをアンティーク、100年以内のものをビンテージ、最近のものをジャンクなどと区別していますが、例えば、石には1億5千年前に微生物の死骸が堆積したものがあります。砂が400万年という年月をかけて集まってひとつの石になっているものもあります。石になるまでの年月を知ると、アンティークと言われている物と比べものにならないほど古いですよね」
淡嶋さんは、古道具屋の店主。職業柄もあり、アンティーク、つまり年代を経て品格を持つものとして石を見つめています。その品格は、模様や形や色に現れているそうです。「地層に“おしくらまんじゅう”のように押し合う力がかかることでできた亀裂や、雨風が作った模様、最初は角のあるものが海や川のなかを流れていくことで帯びていく丸みなど、石の形や模様の美しさ、面白さ、構成する物質が醸し出す色味は、何の変哲もないと思われるような石でも、ひとつひとつに経てきた歴史が宿っていて、とっても味わい深い。途方もない年月をかけて、ひとつひとつの個性ができ上がっているんです。そう考えると、身近にある石を見てみれば、そのどれもが、世界にひとつしかないもの。見れば見るほど面白みがあり、コレクター心もくすぐられます。だから、骨董と同じような目線で見ても、石って相当魅力的な存在なんですよ」。淡嶋さんのお店には、商品やディスプレイとしての石がいくつも並んでいます。なるほど、石と骨董がそれぞれに長い時間を経て醸し出している空気感は、とても似ているように感じます。
淡嶋さんが身近な石に興味を持ちはじめたのは、約4年前。「それより前から好きだったのが鉱石です。きっかけは金色をした『黄鉄鉱(おうてっこう)』。自然界に、こんな人間が作ったようなメタリックでシャープな色形のものがあるんだ!って感動して。山へ採掘に行ったりもしていたのですが、本当に体力がいる作業なうえに、巡り合うことはなかなかできない。それなら、もっと身近にある石から、自分だけのお気に入りを探す楽しみもあるんじゃないか?と考えたのが、石を拾いはじめたきっかけです」
淡嶋さんの石拾いの場は、ホームグラウンドである鴨川や、旅で出かけた土地の砂浜や河原。そのときの心得は、自分の「好き」を尊重すること。「子どもは、河原へ一目散に駆け寄って、すぐに『これ!』と選べる。さらに名前までつけて。その能力はすごいなあと感じます。じゃあ大人は?というと、先に考えたり、知識を持ち出したりしてしまう。そうではなく、河原にあるような何の変哲もないものだからこそ、自分がこう見えた、こう感じた、だから好き、という自分なりの価値をつけることができる。まずは、そんな目線で選び、次に周りからの目線、つまり学者の研究結果などを通して見てみる。そうすることで、主観的視点と客観的視点の両方向から石という存在を楽しむことができる。僕は、そんな二通りの見方に敬意を払いつつ、好きな石を探す楽しみを味わいたいと思っているんです」
淡嶋さんが石を拾ってからの最初の楽しみは、「勝手に見立てて名前をつけてあげる」こと。「宇宙船」、「太陽系図」、「魔女」…。形や色や模様を別の何かに見立てて名前をつけることで、自分のとっておき度が、どんどん増していくと言います。そして、石を拾うときに何より大切にしたいと考えているのが「拾った石を“飾る”」こと。「きれいに飾るところまでやると、人の手が加わる。その人の手が加わることこそ一番大事だ」というのが持論です。
「川にあるただの石ころと、室内などで丁寧に飾られているただの石ころはやはり違うと思います。飾られているただの石ころは、誰かが選んで運んで来て360度の視点から最も気に入った角度を選んで飾られています。そんな人の行為や感情が、飾るという行為に埋め込まれている。その埋め込められた感情を探索するのが喜びになっていきます。なんでこんな石ころなんか飾ってるんだろ?って(笑)」
お店では、石の下にさらりと布一枚が敷かれているだけで、又、小さな積み木を台にして石がちょこんと鎮座しているだけで、その石がとても素敵に、誇らしげに見えました。「飾っている様子を誰かが見たとき、『あ、これを大切にしてるんだな』と感じられる。そうすることで、自分にとっての特別感がアップするし、他の誰かにとってもそういうものを読みとるのは楽しいことだと思います」。また、拾った日時、場所、名前を記しておくのもおすすめとのこと。そうすると次に見たとき、記憶や出来事も一緒によみがえってくると言います。
「価値というのは、普遍的に存在しているように見えますが、誰かがつけたものに過ぎません。誰かがつけたものが『価値』ならば、その誰かが私であってもいいのではないでしょうか?つまり、誰かが作った価値観ではなく、自問自答しながら、自分で価値を決めていく。そうすると、価値というのは神様でもなんでもないのだから、崇めたり怯えたりする必要はないし、値段が高いものにこそ価値があるという世の中の考えに従う必要もないとわかってきます。なので、僕は、『自分がいいと思ったものは、誰が何と言おうと、やっぱりいいんだ』と思って、自分の見方を優先させています。そうしたら、僕とものの繋がりに興味を持つ人が現れるなどの新しい喜びが増えることになりました」
賀茂川と高野川の合流地点、鴨川三角州(鴨川デルタ)の河原にて、淡嶋さんといっしょに石拾いをしました。腰をうんと低い位置にかがめ、じーっと河原を見つめる淡嶋さんは、拾いはじめて数分ほどで、手のひらにいくつもの小石を載せていました。それらは、ここで拾える特徴的な4種類。京都特有のカラフルでとっても硬い「チャート」。海のなかの微生物の死骸でできていて、1億5千万年前のものもあるとか。そして、マグマが冷えて固まった「火成岩」、砂が集まってできた「堆積岩」、割るときらきら光るという「変成岩」。もちろん、名前や歴史がわからなくても、それぞれの異なる魅力を一目で知ることができます。「ひとつの場所で石を拾い続けていると、その場所にある石の特徴までわかってくるんですよ」と淡嶋さん。
この場所の石が川に流され、大雨の際などにゆっくり移動し、角が取れ、どんどん丸みを帯びて、25年ほど経つと大阪湾まで流れ着くというお話も聞けました。「自分のホームグランドを見つけたら、大雨で増水したあとが、新しい石を見つけるチャンス!そして、旅先などでも拾ってみてください。その場所ならではの性格を持った、“ご当地石”を集めるのも楽しいですよ!」
今日一番の収穫は、手のひらサイズの三角の石。「これは台として使えます!いい石が見つかりました」と、とてもうれしそうな淡嶋さんでした。
『野生の思考』
クロード・レヴィ=ストロース (著), 大橋 保夫 (翻訳)
「この本には、「ブリコラージュ」という考え方が紹介されています。ブリコラージュ(Bricolage)とは、『寄せ集めて自分で作る』『ものを自分で修繕する』こと。『器用仕事』とも訳されます。元来はフランス語で、『繕う』『ごまかす』を意味するフランス語の動詞 “bricoler” に由来します。その場で手に入るものを寄せ集め、それらを部品として何が作れるか試行錯誤しながら、最終的に新しい物を作ることです。京都にはそいういったブリコラージュは多く見受けられます。例えば、『借景庭園』。手に入らない遠くにある山をあたかも自分の庭の一部にしてしまいます。石庭は、石を川に見立てて水がない所に海を作り出します。特に『見立て』にはブリコラージュの神髄があると考えています。
昔の人たちは、目の前にある限られた材料で多くの価値を作り出してきました。目の前にあるなんの変哲もないものに価値を作り出してきたのは、元来の人間の能力だと言っています。その場で手に入るものでも、新しい価値が作れることを指し示しています。この考えを持てば、日常の風景を違った目で見ることができるかもしれません」
古道具 Lagado研究所
石、星、漂流物、種などに関するものを主に扱う古道具屋。石にまつわるイベントなども開催しています。石を語りあえる仲間を随時募集中。
住所:京都市左京区北白川久保田町60-11 ミヤギビル2.5F
営業日:金・土・日
営業時間:12:00~19:00
URL:http://lagado.jp