09
春をみつけに走る。

私たちが朝、走るようになっておよそ3ヶ月が過ぎた。
最初は寒さをしのぐという不純な(?)動機からだったけれど
いくぶん空気が和らいできた今となっても
ますますもって、やめられなくなってしてしまっている。
確かに、毎日の習慣になってきた、というのもある。
でもそれ以上に、私たちのココロを動かしているのは(ムフフ)、
また新たな「走る動機」ができたから、に他ならない。

あれは、2月の終わりごろだっただろうか。
ふと思い立って、いつものコースを変えてみようと思った。
後ろで、少し遅れて走っている彼のほうを向き、
「今日はここの角入ってみよっか」といいながら曲がり、
前を向き直ったとたん、驚きのあまり「ヒョエッ」と
へんに裏返った、我ながら気持ちの悪い声が出てしまった。
「どないしたんやー?」と遠くから叫ぶ彼に、
私は、ありったけのチカラでヒラヒラと手招きする。
急いで駆け込んできた彼もまた、角を曲がったとたん、
「ウキャッ」と、さらに気持ち悪い裏声を出した。
そう、すぐ目の前にあるおうちの軒先から、
梅の花が、それはそれはきれいに咲いていたのだった。
「ずっと近く通ってたのに、今まで全然気付けへんかったよな」
と、彼はへなちょこな目をしばしばさせながら言う。
そうなのだ。私たちは「走る」ことに集中するがあまり、
まわりの景色すら、ロクに見ていなかったのだ。

私たちが「おそとの家」暮らしを始めて1年近く。
のっけは、毎日がすこぶる新鮮で楽しかった。
ささいなことでも、何か面白いものを見つけると、
いちいち、やんやと騒ぎ立て、写真をたくさん撮った。
しかし、日々を重ねていくたびごとに、
感動することもしなくなった。
写真を撮る頻度も、少なくなった。
おそとに対し、ありがたみを感じなくなってきていた。
なのでこの梅の花は、そんないささか不感症ぎみになっていた
私たちを気付かせる役目かもしれなかった。

もちろん、花は自分をきれいに見せたり、
人の目を楽しませたりするために咲くのではない。
簡単に言うと、子孫を残すため。
そんな彼らなりの切実な理由なのであって、
私たちが、いささかロマンティックに
考え過ぎているのかもしれない。
だけど、ならばなぜ、こんな冬の霞んだ景色の中に
違和感なく溶け込みながらも、一発のパンチを与えるような
鮮やかで弾けるような色をしているのだろう。
点が散りばめられて面になるような、
まばゆい咲き方をするのだろう。
私には花が「別にあなたに喜んでもらいたくて
咲いているんじゃありませんよ」とうそぶきつつ、
その実、めいっぱい意識しているような
そんな気がしてならないのだ。

それから、私たちにとって走ることは、
寒さしのぎから一転、
新しい花の咲く風景を求めて、という目的にとってかわった。
その日によって、コースをあっちこっちに変える。
ほとんどが気分と勘だけがたよりだけど、ある日
どことなく青く、それでいて甘い匂いのするほうに足を進めると、
そこには黄色いミモザが、たわわに咲き誇っていた。
「ビンゴやな!」彼はうれしそうにカメラを向けている。
一度、彼がそんなに好きならと、自分の家に花の種を植えようと
提案してくれたけれど、それはしたくなかった。

だって、春は自分からみつけにいくほうが、ずっとうれしいから。

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(PDF)

TEXT:
Mitsuharu Yamamura
ILLUSTRATION:
Ikuyo Tsukiyama
TEXT:
Mitsuharu Yamamura
PHOTO:
Shunsuke Ito