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魔法はもう効かない。

よりにもよって、なんでそこ?とみんなに言われる。
どんだけー、なんてひと昔に流行った言葉を
ぽろりと口にしてしまった者もいた。
その後、やたら恥ずかしがっていたけれど。

とーにーかーく、誰がなんと言おうと、
僕らは“あそこ”が好き。
好きだったら好きなのだ!

僕らが、空き地にテントとキャンプ用のキッチンだけの
まさに“ひとつ屋根のない”おそとハウスで
暮らすようになり、何の機会が増えたかって
ズバリ、カフェでお茶することかもしれない。
幸いにも、ふたりともお気に入りの場所が
歩いて15分ほどのところにあり、
ヒマさえあれば、ちょっくら行っとく?と目で言い合い、
あつあつのアッサムティーとケーキをいただきに
ふたりして、テクテクと歩いていく。
ここの紅茶は、湯気のレベルからしておいしいのだ。

そのカフェは、ふつうの古い民家を生かした作りで
当時の、おそらくおじいちゃんが暮らしていたたたずまいが
ちっとも隠そうとすることなく、
むしろあまりにもむきだしに、まんま残されている。
なつかしいタイプの黒い電話と電話台があり、
床の間にはビミョーな掛け軸が飾られている。
さすがに、たくさんあるバラバラのソファやテーブルは、
あとから持ってきたものだろうけれど、
「は? 昔からここにいましたけど、何か?」
とでも言いたげに、
しっかり、しっくりその場になじんでいる。

僕らがその話を友人たちにすると、みなおしなべて
「屋根のあるふつうのおうちが恋しくなるんだねー」と、
したり顔で言うけれど、残念ながら決してそうではない。
というのも、僕らのいつもの特等席は「あそこ」。
そう、大きな柿の木のある小さな庭に、
むりくり椅子とテーブルを置いただけのテラス席なのだ。
ここが、先客がいて空いていないと、
残念!ガッカリだよ!と、
これも相当古いギャグのようなセリフを言い残し
帰っちゃったりする日もある。

そこまで言うと、こんどはみなズッコケる。
冒頭のコメントが、矢継ぎ早に浴びせられる。
「だったら、家でお茶すればいいじゃん」と。
しかし僕らにとっては、それとこれとは
全くもって意味あいが違うのだった。

確かに、どちらも「おそと」であることには変わりない。
僕らの中ではあまりにも自然だったので、
あまり考えることもなかったのだけど、
そう言われると何が違うのか、
カフェでお茶を飲みながら、
ふたりで考えてみることにした。

「でもさ、お茶は断然ここで飲むほうがおいしいよね」と彼女。
「そらそうや。同じ茶葉買うてきてうちで
淹れてみたこともあったけど、ちゃうかったよな」と僕。
「でもさ、なんで店の中じゃダメなんだろうね」
「そら、風と光を感じながら飲み食いしたいからやろ」
「でもさ、なんでうちじゃダメなんだろうね」
「そら、ウマさのクオリティがちゃうからやろ」
「でもさ、よくおそとだと何でもおいしいっていうでしょ」
「そら、いうわな」
「でもさ、私たちはそうじゃないよね」
「そらま、もう慣れっこやからな………あ、それや!」

そうなのだ。おそとで飲み食いするのは、
基本的に気持ちがいいし、なんだっておいしく感じる。
それだけに、おそとであるという理由だけで、
どんなグルメを標榜する人だって、
味の許容範囲が、てきめんに下がってしまうのだ。
たとえば、キャンプに行ったとする。
そこで、肉がこげこげになったり、
単調な味のカレーライスが出てきても誰も文句は言わないし、
お弁当だって、本当はあつあつのできたてが
おいしいに決まってるのに、
あの、ぎゅうぎゅうにおかずが詰め込まれたビジュアルが
「思いの詰め込まれた」感じになるマジックにかけられ、
口をすぼめながら、みんなおいしいとほうばる。

だけど僕らは、おそとが基本なので、
そのマジックにかけられることはもはやない。
ゆえ
に、求めるレベルが上がっているのだ。

1年のおそと暮らしで、僕らは何を得たのだろう。
今のところ何も分からないけれど、
こんなことをときどき考えていくと、
いつのまにか、知らないうちに、ゆっくりと、でも確実に
何かをもたらしているのかもしれない、とも思う。

「さて、そろそろ愛おしいわが家に戻りますか」
と彼女は、にっこり笑って言う。
灼けた肌が、よりかわいさをアップさせている。

そう。ひとつ屋根はないけれど、 僕らはひとつ空の下で暮らしている。

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(PDF)

TEXT:
Mitsuharu Yamamura
ILLUSTRATION:
Ikuyo Tsukiyama
TEXT:
Mitsuharu Yamamura
PHOTO:
Shunsuke Ito