祈る人

ここではない場所とつながる居方

祈る人について最初に意識したのは,台北の龍山寺を訪れた時だった。カラフルな供え物や建物,日本の寺では見かけない将棋や政治的議論をする人達も新鮮だったが,最も印象に残ったのは,一心に祈る人々の姿である。長い線香をもって,90度向きを変えつつ各方向に深く礼をする。また地面に伏して祈る人もいて,日本の寺のお参りとはかなり様子が違っている。後に訪れた上海の静安寺でも同様の祈り方だった。

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バレバレ(「コモンズとしての縁台」参照)の調査で訪れたインドネシアのLae-Lae島で,初めて身近で見たイスラム教のお祈りも強烈な印象を残した。モスクの尖塔のスピーカーからお祈りの時間が告げられると,島の人々はもちろん,調査を手伝ってくれている学生達もお祈りに向かう。女性達は白いベールをかぶり,床に敷いて使うカラフルな敷布を頭に乗せて,島のあちこちからモスクに集ってくる。子ども達は普段どおりにしているが,白い女性達が歩く時,道の空気は確実に変わる。モスクでは正面に向かって前方に男性,後方に女性が並び,立ったり、座ったり、立礼をする一連の礼拝が繰り返される。

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今振り返ってみると,この2つの例がヨーロッパの教会での荘厳なお祈り以上に深い印象を残したのは,教会や寺社と違って,祈りを捧げている対象が見えなかったからではないかと思う。龍山寺や静安寺では,境内の真ん中でしかも向きを変えて祈るため,何に対して祈っているか一見わからない。モスクには祈る対象としての偶像はない。その結果,人々の純粋な祈る姿が浮かび上がるのだ。

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姿が浮かび上がるだけではない。仏像やご神体など祈りの対象がそこに存在する場合,祈る人と対象との関係はこの世界の中で一応完結して見える。これに対して,見えないものに向かって祈る人は,そこに身を置きながらも思いはここになく,別の世界に向かっていることが周囲の人間にもはっきり伝わってくる。ここに居ながら,ここではない場所と深くつながり,交信していることがわかるのである。その結果,祈る人の周囲には独特の立寄り難い雰囲気が生まれる。時々街角で見かける托鉢僧も,喜捨を乞うもので厳密には祈りとはいえないが,向かう対象なしに佇んで見えるという点で同様の雰囲気を周囲に生み出す。

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ある種の人の居方は,その人の認識しているものを可視化してくれる。それは周囲にいる我々にとって,世界を認識する材料になる。つまり,祈る人々,とりわけ「空(くう)」に向かって祈る人は,ここではない世界の存在を気づかせ,我々の認識を拡張してくれる貴重な存在なのである。
 知人からの伝聞だが,東日本大震災の後に何ができるかを議論するある集会の場で,一人の外国人参加者から「なぜ皆さんは祈らないのか。こういう時はまず祈るべきだ」という発言があったという。確かに多くの日本人は,できることの選択肢として祈ることを除外して久しい。
 かつての日本の町には,神社や寺に加えて,お地蔵さんや祠など街中に様々な祈りの場があったが,戦後日本で計画・開発された町には,宗教施設はない(欧米のニュータウンには教会がある)。宗教施設がないということは祈る場がなく,日常祈る人の姿に出会わないということである。東日本大震災から1年あまり,失われた町に佇んで,あるいは海に向かって祈る多くの人の姿があった。私達は先人達が造った祈る人に出会わない街について,再検討する時期に来ているのではないだろうか。

すずきたけし
大阪大学大学院工学研究科准教授(地球総合工学専攻 建築・都市デザイン学)。1957年生まれ。建築計画,環境行動デザイン研究。共著に『建築計画読本』(大阪大学出版会),『環境と行動』(朝倉書店),『住まいのりすとら』(東洋書店),『まちの居場所』(同)

<これまでの居方>

祈る人
ここではない場所とつながる居方
よじ登る子ども達
みんなで,全身で確かめる彫刻
街角の予告編上映会
映画「ニュータウン物語」自主上映会街頭宣伝
羊に座る体験
上海万博オランダ館の居方
もう一つのOSOTO
屋上の居方
コモンズとしての縁台
インドネシアLae-Lae島,バレバレの居方
ワイルドなベンチ
メキシコ国立自治大学の彫刻空間の居方
そこに居る「あなた」
パレ・ロワイヤルの居方
斜面とディテールが生み出す風景
梨花女子大学キャンパスコンプレックスの居方