今回は、子どもが群がって遊ぶ屋外彫刻について考えてみたい。ニューヨーク,セントラルパークの不思議の国のアリス像と,パリ,サントゥスタッシュ教会前の「L'ecoute(聞く)」と題された人の頭部の彫刻(アンリ・ド・ミラー作)がその代表例である。いつ行っても子ども達が上によじ登っている。どちらも間違いなく楽しげで微笑ましい風景であるが,これまでは居方として考察するには及ばないと考えていた。
もともと人の居方は,プランナーやデザイナーが再開発のコンセプトとして「にぎわい」ばかりを主張していたバブル時代に,都市空間が目指すべき人の状態は「にぎわい」だけではないだろう,という問題意識からスタートした。そのため,どちらかというと個人や小人数グループが各々独自の場を確保できている,いわば離散的な状態を主に取り扱ってきた。逆にいうと,普通に人が集まっている楽しげな情景は後回しというか,避けてきたのである。しかし,この2つの彫刻はずっと気になっていた。
あらためて子ども達の様子を観察すると共通の特徴があることに気づく。まず,子ども達の姿勢が多様である。一人として同じ格好がない。普通の遊具が,同じ姿勢の子ども達の鈴なり状態になりがちなのと対照的である。そう,一見集団で群がっているのだが,この2つの彫刻では子ども達は個人個人が独立して見えるのだ。
また,単に登って座ったり立ったりしているのではなく,それぞれの姿勢とポジションを維持するのに全身を使っている点も共通している。少々大げさだが,子ども達は視覚優位の社会の中で忘れがちな触覚を発動して彫刻の形を確かめており,その感覚は,見ている我々にも,素材の石や金属の物質感,皮膚への圧力,面の構造として伝わってくる気がする。
最後に忘れてならないのは,これらが,最初から登って遊ぶことを想定したジャングルジムや展望台ではないことである。子どもは一般に高いところに登ることは好きだが,この2つのオブジェの場合,単に登って楽しく遊んでいるというだけでなく,よくわからない未知の対象に出会って,それぞれのやり方で調べている印象,どう攻略しようという戸惑いとわくわく感が伝わってくる情景が生まれるのだ。
人は「他者の居方を通して環境を認識している」というのが,私の持論である。今回の事例でもわかるように,とりわけ子ども達は,積極的に環境の様子を探索する本能があり,結果として街に環境の構造を浮かび上がらせる居方の風景を創りだす。いわば私たちにとっての斥候あるいは外部センサーのような役割を果たしてくれている。
2つの彫刻がずっと気になっていた理由がわかってホッとした反面,「個人個人が自立して見える」「他者を通じて環境を認識する」と言う,結局いつもと同じ価値でしか居方場面を解釈できないのかという反省と課題が残ってしまう結果となった。