街角でダンボール箱を覗き込んでいる人がいる。何をしているのか。かなりシュールな光景で怪しい雰囲気さえ感じるが,よく見るとダンボールの横には「予告編上映中」と張り紙がある。そう,これは映画の宣伝のための予告編上映会なのだ。
2004年4月,私が代表を務める千里グッズの会(絵葉書など千里ニュータウンのお土産をつくることを目的に生まれたグループ)は映画『ニュータウン物語』(本田孝義監督)の自主上映会を企画した。その時に千里中央の広場で行なった街頭宣伝の風景である。ダンボールの中にはノートパソコンがあり映画の予告編が音声つきでエンドレスに流れている。
自主上映が決まった時に考えた。もちろんチラシは配るけれど,映画の宣伝なのだから当然動画があったほうが効果的だ。しかし予告編は普通映画館やテレビでしか見られなので,今回は使えない(最近は予告編もウェブ上でも見られるようになったけど‥‥)。待てよパソコンは外へ持ち出すこともできるじゃないか。液晶モニタは明るいところでは見難いけれど,何か日射を遮るものがあれば…,そこまで気づいてすぐにiBookと手近にあったダンボールをもって近所の公園にいって試してみたら十分見ることができた。こうして開発(笑)された宣伝手法である。
宣伝として効果的だったのに加えて,ノートパソコンというデジタルツールとダンボールというローテクの組み合わせで,都市の中に少し違った居方の風景をつくることができたと思っている。
この街頭宣伝は,スマートフォンを手にひとりで予告編をみている場合と比べると,見ている映像情報は同じだが,その場所における居方の意味は違っている。それはメッセージの送り手と受け手の関係が見えるかどうかの違いである。スマートフォンなどパーソナルなデジタルツールによって,我々はどこにいてもあらゆる情報にアクセスできるようになった。しかし周囲の人からみると,その人がツールを通して何を見ているか,どこにつながっているかは,同じ空間に居ながら全くわからなくなった。そこに居る人が知覚している世界や関係性が,他者にどう認識されるかは,居方の重要なポイントである。この街頭宣伝では,情報の送り手はダンボールを持っている宣伝ボランティアだということがはっきりわかる。つまり,デジタルメディアを媒介としながら,メッセージの送り手と受け手の関係が明確に可視化されているのである。
ところで,この街頭宣伝を行なったのは,共に今は亡き「千里センタービル」(槇文彦設計)と「豊中市千里公民館」に90度に挟まれた広場である。商業施設が多い千里中央地区の中で,公共施設に囲われたパブリックな性格の場所であり,断りなくこうした街頭活動ができる貴重なエリアだったが,再開発によって失われた。上映会を行なった「ジブラルタ生命ホール」も今はもうない。考えてみると千里から多くの都市空間・施設が失われている。8年前の出来事だが,空間も居方もすでに再現できない歴史の一コマになりつつある。