「おそと」と「廃墟」。一見別個の価値に見えるこれら2つの概念は意外と結びつきやすい。かつては内部空間をもっていた建築物が朽ち果て、いつしか屋根の抜けたオブジェとなる。表皮が風雨にさらされ、煉瓦やコンクリートといった「内部構成部材」が露出し、あるいは草木が生い茂る。まさに廃墟は建造物のおそと化現象そのものではないか。
「廃墟は美しい」といったある種の“廃墟ロマンティシズム”が18世紀のイギリスで確立したことはよく知られている。欧州大陸にグランドツアーに出かけた富裕層がこの美学を“発見”し、イギリス本国に持ち帰ったのだ。その意味でイギリスは廃墟美学の創始国であり、現在に至るまで廃墟先進国としての潮流をしっかりと受け継いでいる。イギリスは今も魅力的な廃墟に満ち溢れているのだ。
ところで、イギリスには「フォリー」と呼ばれる面白いものがある。装飾的で、用途のない建築物という定義もされているが、要するに、見る者にその姿を楽しませることに存在意義をもつオブジェのことだ。そして意図的に作られた廃墟、つまり「人工廃墟」がその多くを占めている。これに対するイギリス人の情熱は今もなお熱く、1988年にはフォリーの保全と啓発を目的とした「Folly Fellowship」などというチャリティー団体までもが結成されている。2000年代にはフォリーそのものの設計を専門とするデザイン会社までもが現れた。
ウィンポールホール(Wimpole Hall)のシャムカースル
(1770年 ハートフォードシャー)
貴族の豪邸に併設された18世紀の風景式庭園内には特徴的なフォリーが頻繁に登場する。休憩施設という“実用性”をもつものもあるが、主な目的は「アイキャッチャー」すなわち庭園内の景観にアクセントを与えることにある。フォリーの代表例とされるウィンポールホールのシャムカースル(写真1)を設計したサンダーソン・ミラー(1716-80)は廃墟建築を専門とする建築家であり、英国内で数多くの作品を手がけている。シャムカースルは本邸からconcave(コンケイブ、緩やかにくぼんだ)の大地形を挟み対峙する絶妙の位置に置かれ、見事なアイキャッチャーを成している(写真1右)。“長い年月”を経た雰囲気を意図的に醸し出すために、カースルが最初から巧妙に破壊されているのもたいへん面白い。
ところで、フォリーが上記のような貴族の領地内のほかに、おそとすなわち一般市民の目に触れるところにも存在するのをご存知だろうか。ハートフォードシャー・ノースマイムスのフォリーアーチ(1740年頃),サフォーク州のアイヴィー・ロッジ(19世紀初頭)は敷地の門を兼ねたフォリーであり、いずれも新造された「一般市民の目につく人工廃墟」である。これらの存在はイギリス一般社会のもつ美の価値観に少なからず影響を与えていったに違いない。
事実、これに触発されたのか、その後ついに一般市民も廃墟づくりに立ち上がる。ケント州シアーネスにある「グロット形フォリー」は、1830年代にセメント樽が海岸に打ち上げられているのを地元の農民が見つけ、その美しさに魅せられ作り上げたフォリーである。樽型のコンクリートブロックとランダムに散らばったコンクリート塊の造形は人工廃墟の新しいレシピと言えるだろう(写真3)。そもそも、海岸に打ち捨てられたコンクリート塊にすらシンパシーを感じ取るほどの鋭い感受性を、この農民はもっていたのである。この200年前の現象は、画期的なおそと発見の「事件」ではなかっただろうか。
ノースマイムスのフォリーアーチ(1740年頃 ハートフォードシャー)
アイヴィー・ロッジ(19世紀初頭 サフォーク州)
シアーネスのグロット形フォリー(1830年代 ケント州)
この感性は、ついには本物の廃墟にまでたどり着く。例えば、世界遺産として有名なスタッドレイ・ロイヤルは既存の廃墟を点景と捉え、周辺を庭園として整備したものである。また、ノーフォーク州ソープにある「セイントマリー教会の廃墟」は12世紀の円筒タワー型廃墟で、高さの半分,及び南東側と北東側を除く全てのファサードが失われている。このようなものがグレードIIの文化財に指定されていることは驚きですらある補注(1)。元のセイントマリー教会に対する価値観のみならず、ここには廃墟の美学も反映されているようだ。このほか、バークシャーのレディングにある「修道院ミル廃墟」(13世紀初頭)やノーフォーク州ノリッジにある「隠者の家の廃墟」(14世紀半ば)など、都市化された空間にも本物の廃墟が価値ある文化財として生き続けている。
セイントマリー教会の廃墟(12世紀 ノーフォーク州ソープ)
“隠者の家”の廃墟(14世紀半ば ノーフォーク州ノリッジ)
18世紀イギリスにおける造園の天才たちは、その生成プロセス自体がおそと的である廃墟を美の対象に転写した。廃墟を嗜む感性は貴族階級のみならず一般市民にも確実に伝播したのだ。そして今度はそこから新鮮な視座を得た一般市民が、廃墟景観の面白さを追体験し、新しい人工廃墟を造りあげる。この視座を共有した社会は、おそと全域を貪欲なまでの探究心をもって観察し、既存の廃墟にもまた美学を見出したのである。この輪廻が重層的に確立しているところにイギリスの風景をめぐる価値観の面白さの1つがある。
イギリス人は歴史好きでマニアックだと突っぱねるのは簡単だ。ただ、彼らは実に愉快な風景の楽しみ方を繰り返し生み出している。既存の景観に新たな価値を与え、それを心から楽しめることも「豊かさ」の1つではないだろうか。そしてこのような視座を習得できれば、我々日本人も自ずと自らの環境にもっと多くの価値を見出すことができるかも知れない。
楽しめる可能性のある景観は我々の身の周りにまだまだあるはずだ。景観の価値が発見・共有される仕組みをもっと考究して、日本にも”楽しめるはずの景観”をもっと増やしていきたいと考えている。