皐月 「葉」

 五月は、若葉に輝きと美しさが増すころ。 京都の平安神宮周辺を歩いていたときのことです。桜の名所ゆえ、その時季が過ぎたからか、休日というのに人通りはまばら。そっと手をつなぐ学生らしき男女の姿が目に入ってきました。どのような言葉を語り合い、聞き合っているのだろう。新しい緑のなかで爽やかに紡がれていくラブストーリーを願って、その後を気分よく過ごしました。

 樹木において「葉」は、光合成や呼吸をする器官です。そして、環境の影響を最も受けやすく、最も弱いところと考えられています。だからこそ、新芽から若葉へ成長しようとする健気な姿に心を打たれます。そっと重ねた祈りの手のような形から、私たちの忘れてしまった速度で、静かにほどけていく姿。そこには、穢れはなく、希望しか感じられません。

 好きな若葉は?と訊かれたら、生活のすぐそばにある柿と栗を答えます。どちらも、最高の萌黄色で、この時期、まちを初夏へと目覚めさせます。栗の新芽が僅かにほどけたときは、雫を授かるような手の形。そこから、数枚の羽を慎重に広げてゆき、開ききると、明日を信じきっているかのように伸びやかに成長していきます。

 柿の若葉は、最もつややかな若葉ではないでしょうか。芸術性の高さを枝ぶりに見る柿の木に若葉が目立ちはじめると、よりいっそうの悦びが増します。少し成長すると、雨水をたっぷりと溜めこむためか、両端を内側に丸めて器のよう。その姿に、愛おしさを感じます。

柿や栗に限らず、あらゆる若葉を目にするとき、その緑色をしっかりと受け止めるためか、眼に力が入ります。その輝きが眼の奥までも清め、からだの隅々にまで浸透していき、自らも輝き出すかのような錯覚に陥ります。もしかしたら、私が輝きを欲する訳は、春のはじめに決意したことが、思うように進まない焦りの時期と重なるからかもしれません。並木道や公園、山のそばを通るとき、深い呼吸を繰り返すことで、胸のつかえを消そうとすること。やわらかく瑞々しい若葉に触れることで、苛立ちを鎮めようとすること。これらは、大人になって覚えたことです。私たちは、若葉だけではなく、樹木の葉から、一年を通して多くの恩恵を受けています。夏が深まるころの青葉からは、木洩れ日や吹き抜ける風を。紅葉からは、言うに及ばず。

 先人がじっくりとつきあうことで、趣のある言葉を生み出していたことも知っておきたいことです。若葉が茂り、重なり合って結ばれたような形になることを「結葉(むすびば)」、樹木の枝葉の間から漏れる月の光が衣服の上に葉の影を落とし、落ち葉を散らしたように見えるものを「落葉衣(おちばごろも)」。他にもたくさんありますが、都会に暮らしていても、葉を身近に感じ、気持ちを配れば、樹木の器官という役目を超えて、私たちを愉しませてくれることに気づくでしょう。

 言葉を扱う仕事をしていると、言葉の「葉」と、樹木の「葉」を、重ねてみることがあります。言葉は、言の葉。「葉」は、大樹の葉であるという説。大樹は、成熟した私たちを意味するのでしょうか。また、ひとの心の種(=言)を、豊かに表現(=葉)するためのもの、という考えもあります。葉は、その樹木が、一番生きやすいかたち。それぞれが試行錯誤することで自ら作りだしたかたちだから、気取らぬ美しさを感じられるのかもしれません。

 若葉のころになると、焦りからの言葉を吐き出してしまうことが多くなる私ですが、葉のように、経験から生み出す、気取らぬ美しい言葉で語り、弱いながらも健気に生きていけたら、と願うばかりです。

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