水無月 「音」

 暦の上では5月のはじめに立夏を迎えますが、みなさんはどのような音を聴くと、夏の到来を知りますか? 私の場合、季節の音といえば、生き物の鳴き声です。6月のはじめ、時鳥(ホトトギス)によって、気持ちを初夏へと高めていきます。
 鳴き声を「テッペンカケタカ(天辺懸けたか)」と俗に表わされる時鳥は、かつて、田植えを知らせる鳥だったそう。現在は、稲の成長を励ます鳥といったところでしょうか。私の住むまちでは、ひとまわり成長した稲が田を緑に染めるころだからです。また、時鳥といえば、『夏は来ぬ』の唱歌を思い出します。「卯の花の におう垣根に ほととぎす 早も来啼きて」の歌詞のとおり、純白で可愛らしい卯の花が山や川の辺に咲き誇るころでもあります。

 鴬の声が夏の表情を見せるのも同じ時期です。覚束ない歌声を山の麓から披露する春とは異なり、人家まで近づいて来て、澄んだ美しい声で伸びやかに歌っているように感じます。春を告げるプレッシャーから解放されたこともあるでしょうし、早春から練習した成果により自信に満ちていることもあるでしょう。胸を張り、天を向き、誇らしげに歌っている姿が目に浮かびます。これら時鳥と鴬の声が響き渡ると、蒸し暑くなる時期ながら清涼なひとときをもたらしてくれます。

 私のように、季節の音を、生き物の鳴き声で感じる人もあれば、風で感じる人、波で感じる人、“音”の意味を“気配”、さらに飛躍して“息吹”にまで広げるのなら、植物や、季節そのものの音を感じる人もいることでしょう。都市で生活をする人であれば、都市ならではの季節の音もあるでしょう。

 ただし、どの音を聴くにしても、私たちの耳は、便利な生活を好んだことによって、昔に比べると、かなり鈍感になったという話を聞いたことがあります。はるか昔は、信じられないほど遠くの音を聴けたそう。人間にも、野生の動物と同じく生きていくために必要な勘ともいえる力が備わっていたのでしょう。そのような力が鈍感になっているとなると、生き物として肝心なときに判断を誤るのではないかと心配になります。けれども、耳は殻をかぶっているだけ。聴く力を高めたいのなら、いつでも鍛えることができるとのこと。かつてのような耳になれば、騒音が減り、耳が許す環境づくりがはじまる、とまで。それは、きっと、季節のうつろう音に溢れている環境。日本に住む者として、そうなれば、とても喜ばしいことではないでしょうか。

 数年前、音環境の専門家を通して耳を鍛える方法を実践したことがあります。その経験から、耳を鍛えるということは、近くの音であれ、遠くの音であれ、ひたすら聴くことに努めること。このとてもシンプルな方法に尽きると思います。目を閉じ、すべての神経を聴くことに集中させる。つまり、耳を傾けるという行為を超えて、からだのすべてを耳にする。そうすれば、これまで聴きもらしていた音を察知することができ、新鮮な世界が広がります。
 例えば、生き物たちのひとりごとを聴くことも、耳を鍛えるひとつの方法になるでしょうか。私の好きな本のひとつに『のはらうた』があります。風や木や小動物、虫たちから聴き取った声を書き留めた詩集です。下記に紹介している「おれはかまきり」のように、子どもから、その親たちまでもが、思わず微笑んでしまう作品ばかりが収められています。もちろん、それらの声は誰でも聴き取ることが可能とのこと。私も、時鳥のひとりごとを書き留めてみましたが、自分の気持ちを反映しているような詩となり、なかなか奥深い遊びと知りました。

 継続は力なり。耳を鍛え続ければ、殻は破れ、本当に動物的勘が蘇るかもしれません。そのような非現実的と思われる期待を高めつつ、水無月の音にからだのすべてを傾けています。

「おれはかまきり」  かまきりりゅうじ

おう なつだぜ
おれは げんきだぜ
あまり ちかよるな
おれの こころも かまも
どきどきするほど
ひかってるぜ

おう あついぜ
おれは がんばるぜ
もえる ひをあびて
かまを ふりかざす すがた
わくわくするほど
きまってるぜ

<工藤直子著『のはらうたⅠ』(童話屋)より>

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