弥生 「生」

 旧暦3月の異称である「弥生(やよい)」。「弥」は、“いよいよ”、“ますます”、という意味があり、木や草が勢いよく、いよいよ、ますます、成長する月だから「木草弥生月(きくさいやおいづき)」と呼ばれていたそう。それが詰まり「弥生」になったという説。私はこの説を信じています。というのも、3月以降の木や草の勢いは、まさにそのとおり。ひとつひとつの移り変わりを見つめていたいものの、成長の早さに追いつきません。その目まぐるしさは、それぞれが季節の変化を感じ取り、正直に従っていることの証しのようで毎年のごとく感心します。

 そして、木や草だけではなく、虫も鳥も動物も、勢いを増すのがこのころ。特に、これらの勢いは、子孫を繁栄させたいという気持ちにあらわれるように思います。例えば、身近でいうならば、猫。本能そのものをむき出した求愛や威嚇の声に、生命力の強さを感じずにはいられません。確実に次の生命の誕生へつなげたいという気持ちが、強さを生むのでしょうか。

 とはいえ、そんな荒々しい春の猫を俳句の視点で眺めると、微笑ましい姿に映ることがあります。その訳は、「猫の恋」「恋猫(こいねこ)」「浮かれ猫」といった擬人化された春の季語として言い表すからです。私の好きな句を例にあげると、どちらも飼い主が温かい目で、恋を終えてきた猫の姿を詠んでいます。

恋猫のもどりてまろき尾の眠り  大崎紀夫

ジャズかける恋にやぶれてきし猫に  杉山久子

 実は私は、俳句を嗜んでおり、猫の恋についての駄句を毎年のように詠んでいます。猫派か犬派かと問われると、犬派なのですが、この時季ばかりは「恋猫ちゃん」と呼ぶ、秘かな猫派。切ない声を「会うぅぅ、会うぅぅぅ」と空耳したり、雨戸を閉める際に鳴いていた猫が逃げたので、恋の邪魔をしたと謝ったり、酒屋の屋根を歩いている猫に酔いたい気分なのかと問うてみたり。そういうときに、確かな春を感じ、恋猫の句をしたためます。もちろん、今も昔も多くの人が猫の恋を句に詠んでいます。なかでも、私が生命力を強く感じる句としては、

恋猫の恋する猫で押し通す  永田耕衣

恋猫や世界を敵にまはしても  大木あまり

 永田は明治生まれ。むかしの人ゆえ、生きている者として当然であるかのように憚りのない恋を見せつける猫に対して、とりわけ、ある種の嫉妬を感じたのかもしれません。大木も、命がけの覚悟を見て取り、猫の恋に圧倒されたのでしょう。そして、「自分もあれ程までにのめり込みたい」という想いが頭をふとよぎったのではと想像します。

 では、生き物の一種であるヒトをみた場合、弥生における私たちの勢いはどのようなものでしょうか。私は、からだにあらわれるのではないかと推測しています。からだは、2月4日ごろの立春とともに緩みはじめ、3月に入ると、要らないものを排出し、いよいよ軽やかとなり、弾力が出て、動きはじめると聞いたことがあるからです。そのからだの動きに勢いが出てくると、全身から生き生きとした生命力を発することができるのではないでしょうか。かつては、立春を一年のはじまりとしたそうですが、からだの変化に暦を合わせていたのかもしれません。ところが、現代人には、3月に生命力を発することが難しくなっているように思います。私自身がつくづく難しさを感じていたことから、生命力を発するには何が大事かと、独力で学び考えたほどです。そこで、辿り着いた先は、基本といえば基本かもしれませんが、季節の移り変わりを見つめるように、からだの変化を常に見つめ、リラックスさせることでした。本来、からだは季節に正直なだけではなく、様々な感情にも正直に反応しています。それを確かめ、自分を日々整え、リラックスさせることに努めると、全体的に安定と余裕が生まれ、自分や自分の未来、すべての未来さえも信じられるようになるものです。そうすると、春には春のからだの変化が感じられ、弥生の訪れとともに、いよいよ、ますます、よい成長を続けていける気がします。

 さて、3月20日は春分の日です。この祝日は、「自然をたたえ、生物をいつくしむ 」という趣旨により制定されたそうです。私たちも生きとし生けるもののひとつとして、私は、自然をたたえると同時に、自分もたたえ、ほかの生物とともに、自らにも愛の手を差し伸べたいと思います。

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