私の住むまちから春の雨を眺めていると、降るたびごとに目的を持っているのではないかと思います。雪から引き継いだころは、土を目覚めさせるために。そして、そこに生きるものの成長を進めるために。花を咲かせる雨もあるでしょう。暖かさが続き、畑に種を蒔くころにも、ひと雨。その雨は、水の神である龍が降らせていると中国では言い伝えられています。淵での冬ごもりを終え、天に昇り、畑の作物の芽生えのために雨を降らせるそう。多くのものが目まぐるしく成長する春は、人間の想像を超えた大きな力が働いている気がするので、むかしの人はこの話を生みだしたのではないでしょうか。
つづいて桜の花が咲くころは、必ずといってよいほど、少しの肌寒さとともに雨が降ります。二十四節気でいう「清明(せいめい)」の時季なので、万物に清く明るい気を溢れさせるために、一旦、天からの水で清めるのかもしれません。葉桜となるころには、雨の似合う蛙の鳴き声が響き、二十四節気では百穀を潤すといわれる雨が降る「穀雨(こくう)」の時季となります。その雨が田に降り注ぐと、土が「任せてよね」とでも伝えているような逞しい色になり安心を覚えます。そうして、田植えの季節へ入り、木々には若葉が増し、すべてが青々とした景色へと変われば、春の勢いがひと段落となります。
このような春の雨のそれぞれの目的をまとめて一言で表すなら、恵みを与えること、と私は思います。もちろん他の季節の雨も恵みを与えるものでしょうが、しっとりとあたたかな、まさに春雨といえる雨は、母の愛情のような印象を強く感じさせるので、雨よりもはるかに大きな恵みを与えている気がします。
ところで、雨の降りやすい春は、私たちにとっては、その不安定な気候ゆえ気持ちが乱れやすく、愁いをもたらす季節といわれています。哀しみや気だるさを感じたり、もの思いにふけたりする人は多いはずです。むかしのように晴耕雨読とはいかず行動を妨げられ、気持ちが落ち込むことも影響していることでしょう。また、はじまりの季節といわれる華やかさとは裏腹に、その愁いによりうまくいかない自分を責め、さらなる愁いを呼び起こす人が多いようにも思います。けれども、この愁いは、日本における春の現象のひとつです。つまり、とても自然なこととして私は受け入れています。それを確かにしたのは、インドネシアのバリ島に暮らす友人と四季の話をしたときのこと。バリ島は、一年を通して暑くて湿度が高く、気候は雨季と乾季を持つサバナ気候。四季がなければ春もないことから、春の愁いもないのだそう。強い不快を感じる暑さに対応していると、日本で培った繊細さは消えざるを得ないと。私は、そう聞いたとき、まさにそのとき感じていた春の愁いに、日本ならではの心を感じ取りました。さらには、愁いが、季節に沿って生きている証しであるという思いに至りました。
さて、田園地域に暮らす人にとっての春の雨は、草木や作物の恵みであると同時に、その人たちにとっての喜びといえます。思うように降れば、挨拶代わりに雨について話すこともしばしば。むかしの人が付けた雨の名前をさらりと口にすることもあります。例えば、菜種(菜の花)が咲くころに降り続く雨を「菜種梅雨(なたねづゆ)」と。そのような人たちを知ると、もしかしたら、かつての日本では、雨が降るたびごとにその目的を読み取り、適する名前を付け、敬意と親しみを込めて呼んでいたかもしれないと想像することがあります。そうだとして、私たちもそれに習ってみるのはどうでしょうか。今日降る雨の目的を現代的に想像する楽しみといいましょうか。春の愁いのなか、頬杖をついて窓から空を見上げながら、雨について考える時間を過ごすことは、詩情が漂う豊かなときになると私は思います。