神無月 「草」

 秋は、花を咲かせる草の種類が最も多い季節といわれています。多くの秋の草は、奥ゆかしい可憐さを感じさせ、しみじみと控え目に花を咲かせます。どことなく昔から例えられる日本の女性に似ているような。それゆえ日本人の心に訴えるものがあるのか、俳句の世界では「草の花」を秋の季語としています。質素な印象をもたらす「草」と華やかな印象をもたらす「花」が文字として合わさることにより、秋らしさと重なる気がして、秋が草の季節であることを納得します。
 草の定義は、木の対語にあるものとされ、茎が木化していない柔らかい植物のことをいうそうです。そうなると、私たちが「花」と呼ぶものも「草」に属するということになり、その豊かさ奥深さから草の見方が変わります。例えば、秋の七草といえば、萩(ハギ)、尾花(オバナ/ススキのこと)、葛花(クズバナ)、撫子(ナデシコ)、女郎花(オミナエシ)、藤袴(フジバカマ)、桔梗(キキョウ)。ただ「花」と呼びたくなるものが大半ですが、すべて「草の花」です。

 10月以降、私がみつめる先にある草としては、まず彼岸花があります。初秋に盛りが過ぎ、真っ赤に燃えていた花びらの縁から白く朽ち始めます。そして、畔や土手は赤から黄へ染まります。円錐状に黄色の花をつける背高泡立草(セイタカアワダチソウ)が至るところに咲き誇り、その後、雨とともに感じるものすべてが秋らしくなっていき、ピンク色の粒状の花を咲かせる犬蓼(イヌタデ)が満ち溢れます。本格的な秋の到来を歓ぶ小鳥の声が響き渡るのもこの頃。山は日に日に秋の装いを見せるようになりますが、全体的には物さびしい雰囲気となり、暦の上での秋が果てます。

11月の半ばとなれば、草紅葉の季節。例えば蓬(ヨモギ)は、紫色を帯びた穏やかな紅色をまといます。枯れても美しさを保つのは、狗尾草(エノコログサ/猫じゃらし)と背高泡立草。狗尾草は、青田の時期に同じく青々とした姿を見せ始め、初秋に黄色を帯び、枯れていきます。けれども、色褪せた穂に夕陽があたると銀色の輝きが。繁茂していた背高泡立草は、花が暖かそうな白い綿毛へと変わり、秋の盛りの頃とは異なるかわいらしさを振りまきます。そうして、草にも真冬が訪れ、野は生成り色の世界へ。

 秋に限らず、草の魅力を問われると、結構多いことに気付きます。まず、目立たぬ種類であっても、それぞれに個性的な形状を持っていること。次に、小さな中にも強い生命力を持っていること。刈られても立ち直る早さに頭が下がり、アスファルトや石垣の隙間でも健気に生きる姿には心が奪われます。そして、書籍などから知る生まれ故郷や日本への渡来時期や経路、その後の広がりといったこれまでの生い立ち。想像が広がっていく名前。特に、ひとつの草が、形状、雰囲気、匂い、味、開花の時期などを由来とする様々な名前を持っている場合は、物語が勢いよく膨らんでいきます。

 私が人に伝えて興味を持たれる草の名前の一つに、早春に咲く空色の花「大犬の陰嚢(オオイヌノフグリ)」があります。実の形状が雄犬の陰嚢に似ていることから名付けられた、かわいそうな名前の代表的存在です。多くの人に愛されている花への嫉妬からか、はたまた愛情の裏返しか。名付けた人の気持ちを考えれば考えるほど不思議な思いを持ちます。
 ところが、別称のひとつは「星の瞳(ホシノヒトミ)」。実はこの花、夜は蕾のまま、朝に光が射すと開きます。そして、一日で花の命は絶えてしまいます。だからでしょうか、次の日には星となる花への気持ちを、名前に表したのかもしれません。

他にも「屁糞蔓(ヘクソカズラ)」「掃溜菊(ハキダメギク)」といった言葉に発しづらい名前の草は思ったよりも多くありますが、別称を知りつつも、かわいそうな名前で呼んでいる自分におかしみを覚えています。

 ただ、どのような名前であっても、どのような生い立ちや物語を持っていても、ひとつひとつの草への愛おしさを抱いていることは確かです。私は散歩を生活の一部にしていますが、草の花の咲き始めや朽ち始めなど、日に日にうつりゆく姿を捉える度に胸を少し高鳴らせます。毎年変わらぬ姿であっても、毎年増していく愛おしさ。一年を通して尽きることのない草からの小さな悦びを胸に重ねていくことで、心の平安も増しています。

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